今回の配達先は、長崎県対馬。ここで漁師として奮闘する銭本慧さん(40)へ、兵庫県で暮らす父・三千宏さん(67)、母・郁世さん(64)が届けたおもいとは―。
東京大学の研究者を辞め、国境の島・対馬で新しい形態の漁業をスタート
九州本土から北西へ132キロ、日本海に浮かぶ国境の島・対馬。慧さんは、街中から車で1時間、海沿いにある小さな集落・田ノ浜に拠点を構え活動している。
実は、元々は東京大学の研究者。しかも2009年、ニホンウナギの産卵場所を発見し、世紀の大発見と話題になった研究チームの一員だった。だが、日本最高峰の海洋研究者の道を捨て、2016年に対馬に移住。研究者の後輩・須﨑寛和さん(40)と合同会社フラットアワーを設立し、漁師に転身した。当時、息子から漁師になると聞いた両親は猛反対したという。
通常、漁師が獲った魚は漁業協同組合に出荷して流通にのせるのが一般的だが、慧さんが取り組んでいるのは、インターネットを介して客に直接販売する「直販」という方法。魚は丁寧に処理を施し、仲買人を通さず直接高級料理店やホテルに高値で卸す。そのため少量の漁獲でも採算が合いやすいという。
8年前、研究者を辞めた慧さんは漁師の修業もせず、この事業のアイデアを実現するため急いで開業した。その理由が、衰退の一途をたどる日本の漁業。この大きな問題を解決するには、過剰な漁獲量を減らして海洋資源を増やさなければならなかった。そこで考えたのが、必要な分だけを獲り直接販売するという新しい形態の漁業。そしてこれが日本の漁業を救う一手だと証明するには、自ら漁師となって実践する必要があった。
ある日の夕方、慧さんの同僚の須﨑さんが、対馬のブランドサバである伊奈サバを狙って海に出た。事前に調べたデータ通りに深場を狙うと見事にヒット。釣り上げたサバは1匹1匹、船上で処理していく。研究者出身ということもあり、魚をいい状態で保存する方法は、文献や論文を参考にして実地で検証。試行錯誤しながら品質の向上に努めている。
翌朝、今度は慧さんが会社の加工場でサバを送り出す。ここでも1匹ずつ殺菌処理などを施し梱包。これで10日間は刺身でも食べられるというが、この一連の方法に行きついたのはまだ昨年のことだという。
たくさん釣れた魚を近所におすそ分け…幼い頃の父との記憶
慧さんが漁師になったのは、幼い頃の父との記憶が影響している。釣りが好きな父とはよく一緒に海釣り公園に行っていた。魚がたくさん獲れたときには近所におすそ分けし、喜ばれたことも。「今でも自分が獲った魚をお客さんにおくりたいというのは、そんな原体験が関与しているのかもしれない」と慧さんは振り返る。
経済的に苦しい時期もあったが、現在は地元の漁協や漁師も新しいスタイルに理解を示してくれ、事業も順調。慧さん自身も「移住者ではなく本当の島民にならなければ思いは伝わらない」と考え、村に溶け込むよう努めたという。今では島民の信頼を得て、漁協の役員も務めている。
父・三千宏さんは今の慧さんを見て「魚を釣っている姿は、小学生の時の坊主と一緒でしたね。だから今、仕事が楽しくてしょうがないやろなあと思います」と目を細める。ただ、東大の研究者から漁師になると突然告白されたときの衝撃はかなり大きかったようで、母・郁世さんは「もう気持ちが真っ暗になりました」と打ち明けられた当時の状況を明かす。
日本の漁業の未来を変えようと奮闘する息子へ、両親からの届け物は―
ある日、慧さんの会社には環境問題に興味を持つ東京の高校生と、隣の壱岐島の人々が集まっていた。慧さんのビジネスモデルについて話を聞きに来ていたのだ。「これが本当に彼らの人生を動かして、リクルートできたらいいなという思惑もありますけど、そうでなくても彼らの頭の片隅にこの体験があって、また対馬を訪れてくれたら。そんな積み重ねでコミュニティが濃くなっていったらいいなと思ってます」。
対馬に渡り8年。国境の島から日本の漁業の未来を変えようと奮闘する息子へ、両親からの届け物は小学生の時に描いた夏休みの絵日記。どのページも釣りに行った話ばかりで、慧さんは「この頃から感性は変わってないですね」と笑う。さらに、父からの手紙には「『竿を振り続ける慧の姿』の原点がここにある。慧は新しい潮目を見つけた。研究者から漁業者への潮目だ。この潮目の理解は私にはなかなか難しかった。次はどんな潮目を見つけるのか楽しみにしている」と綴られていた。エールを受け、慧さんは「父親と一緒に釣りに行ったことが原体験となって、今の僕がある。また、たまに読み返したいと思います」と両親の想いをしっかりと受け止めるのだった。
東京大学の研究者を辞め、国境の島・対馬で新しい形態の漁業をスタート
九州本土から北西へ132キロ、日本海に浮かぶ国境の島・対馬。慧さんは、街中から車で1時間、海沿いにある小さな集落・田ノ浜に拠点を構え活動している。
実は、元々は東京大学の研究者。しかも2009年、ニホンウナギの産卵場所を発見し、世紀の大発見と話題になった研究チームの一員だった。だが、日本最高峰の海洋研究者の道を捨て、2016年に対馬に移住。研究者の後輩・須﨑寛和さん(40)と合同会社フラットアワーを設立し、漁師に転身した。当時、息子から漁師になると聞いた両親は猛反対したという。
通常、漁師が獲った魚は漁業協同組合に出荷して流通にのせるのが一般的だが、慧さんが取り組んでいるのは、インターネットを介して客に直接販売する「直販」という方法。魚は丁寧に処理を施し、仲買人を通さず直接高級料理店やホテルに高値で卸す。そのため少量の漁獲でも採算が合いやすいという。
8年前、研究者を辞めた慧さんは漁師の修業もせず、この事業のアイデアを実現するため急いで開業した。その理由が、衰退の一途をたどる日本の漁業。この大きな問題を解決するには、過剰な漁獲量を減らして海洋資源を増やさなければならなかった。そこで考えたのが、必要な分だけを獲り直接販売するという新しい形態の漁業。そしてこれが日本の漁業を救う一手だと証明するには、自ら漁師となって実践する必要があった。
ある日の夕方、慧さんの同僚の須﨑さんが、対馬のブランドサバである伊奈サバを狙って海に出た。事前に調べたデータ通りに深場を狙うと見事にヒット。釣り上げたサバは1匹1匹、船上で処理していく。研究者出身ということもあり、魚をいい状態で保存する方法は、文献や論文を参考にして実地で検証。試行錯誤しながら品質の向上に努めている。
翌朝、今度は慧さんが会社の加工場でサバを送り出す。ここでも1匹ずつ殺菌処理などを施し梱包。これで10日間は刺身でも食べられるというが、この一連の方法に行きついたのはまだ昨年のことだという。
たくさん釣れた魚を近所におすそ分け…幼い頃の父との記憶
慧さんが漁師になったのは、幼い頃の父との記憶が影響している。釣りが好きな父とはよく一緒に海釣り公園に行っていた。魚がたくさん獲れたときには近所におすそ分けし、喜ばれたことも。「今でも自分が獲った魚をお客さんにおくりたいというのは、そんな原体験が関与しているのかもしれない」と慧さんは振り返る。
経済的に苦しい時期もあったが、現在は地元の漁協や漁師も新しいスタイルに理解を示してくれ、事業も順調。慧さん自身も「移住者ではなく本当の島民にならなければ思いは伝わらない」と考え、村に溶け込むよう努めたという。今では島民の信頼を得て、漁協の役員も務めている。
父・三千宏さんは今の慧さんを見て「魚を釣っている姿は、小学生の時の坊主と一緒でしたね。だから今、仕事が楽しくてしょうがないやろなあと思います」と目を細める。ただ、東大の研究者から漁師になると突然告白されたときの衝撃はかなり大きかったようで、母・郁世さんは「もう気持ちが真っ暗になりました」と打ち明けられた当時の状況を明かす。
日本の漁業の未来を変えようと奮闘する息子へ、両親からの届け物は―
ある日、慧さんの会社には環境問題に興味を持つ東京の高校生と、隣の壱岐島の人々が集まっていた。慧さんのビジネスモデルについて話を聞きに来ていたのだ。「これが本当に彼らの人生を動かして、リクルートできたらいいなという思惑もありますけど、そうでなくても彼らの頭の片隅にこの体験があって、また対馬を訪れてくれたら。そんな積み重ねでコミュニティが濃くなっていったらいいなと思ってます」。
対馬に渡り8年。国境の島から日本の漁業の未来を変えようと奮闘する息子へ、両親からの届け物は小学生の時に描いた夏休みの絵日記。どのページも釣りに行った話ばかりで、慧さんは「この頃から感性は変わってないですね」と笑う。さらに、父からの手紙には「『竿を振り続ける慧の姿』の原点がここにある。慧は新しい潮目を見つけた。研究者から漁業者への潮目だ。この潮目の理解は私にはなかなか難しかった。次はどんな潮目を見つけるのか楽しみにしている」と綴られていた。エールを受け、慧さんは「父親と一緒に釣りに行ったことが原体験となって、今の僕がある。また、たまに読み返したいと思います」と両親の想いをしっかりと受け止めるのだった。